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信仰の一致

日本伝道協議会 大阪大会 2009年10月11日 (日)  3時-5時 大阪教会
講 演 「教団の信仰の一致を求めて」
講師 関川泰寛 (東京神学大学教授、十貫坂教会牧師)

1 キリスの体なる教会に連なる喜び

  わたしたちの目に見える教会は、ペテコステの出来事(使徒言行録2章)によって誕生しました。それ以来教会(エクレシア)という言葉は、聖霊の注ぎによって生まれた各地域や都市の各個「教会」(Ⅰテサ11、Ⅰコリ12など)を表すとともに、全体の「教会」を意味しました。エフェソの信徒への手紙では、キリストとの深い結び付きを持つ全体教会が意味されています。神は、諸力の上に立たれる復活の主イエスをわたしたちに与えてくださり、「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」と言われます(エフェソ123)。エフェソの信徒への手紙3章21節には、「教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように」と頌栄の言葉が記されています。教会は神讃美と関係づけられ、キリストと不離の関係にあることが示されています。さらに、キリストと教会の関係は、結婚の原型としても理解されています(521以下)。

 コリントの信徒への手紙(一)12章12~27節では、教会がキリストの体であり、それに連なる信仰者は、その部分であると言われます。多くの部分から成り立つ体は、相互に不可欠の全体をなしていて、「お前はいらない」とは言えず、「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(1222)。パウロの手紙では、個別の教会が常に視野にありますが、コロサイ書やエフェソ書では、神によって「諸力」と万物の上に置かれた頭であるキリスト(コロ210、エフェソ12023)と特別な関係にある全体存在としての教会が含意されています。

 そこでキリストは天に故郷を持つこの地上の教会の源であり目標であると言うことができます。教会は、常に頭であるキリストを指し示し、キリストのかたちにもっともふさわしく自己形成していくことが求められます。この自己形成は、父・子・聖霊である三位一体の神への信仰を基礎とします。信仰のないところに教会は生まれません。しかし、どれほど小さな群れであっても、イエス・キリストの御名によって集まるところには、そこに主イエス・キリストがご臨在くださり、教会が生まれます。教会では、十字架につけられ復活された主イエス・キリストを証言するために説教と聖礼典を行います。聖書の解き明かしである説教は、信仰をもって聴くことにより神の言葉となり、洗礼と聖餐は、信仰をもって受領することによって神の御子イエス・キリストの定めてくださった奥義となります。礼拝を構成する説教、聖礼典を通して、復活し天に挙げられたイエス・キリストの体とわたしたちは一つに結ばれるのです。

 教会が、礼拝において讃美を捧げ、喜びと感謝の共同体となるのは、このような教会と受肉した御子イエス・キリストの密接な結びつきによります。

2 日基督教団の信仰の一致を求めて

  わたしたちは、○○教会という各個教会の一員であると同時に、日本基督教団という全体の教会に属しています。これら目に見える教会は、信仰の一致によってはじめて一つの教会となります。わたしたちは、信仰告白を告白して洗礼を受け、教会という信仰共同体の一員となるとともに、普遍的な公同教会の一員となります。信仰の一致のない諸活動の参加も、また教会員相互のなごやかな交わりへの参与も、真の教会の一致をもたらすこともありません。使徒信条の「聖徒の交わりを信ず」という言葉は、「聖なるものとの交わり」「選ばれた信仰者相互の交わり」の両方を意味します。両者は不可分の関係にあります。人間的な交誼でだけで結ばれた共同体は、教会という信仰の共同体とは程遠いと言わねばなりません。わたしたちは、信仰によって、教会の頭にいます御子イエス・キリストと父なる神そして聖霊との交わりに入れられるのです。

 現在の日本基督教団の諸教会の一致は、さまざまな仕方で破られています。信仰の一致を隅に押しやって、楽しい友愛が先行してはいないでしょうか。信仰の一致に基づく礼拝や伝道を心にかけずに、社会活動が優先してはいないでしょうか。さらには、一定の思想やイデオロギーに基づいた社会の分析やそれに基づく行動が、教会という信仰共同体の在り方を規定してはいないでしょうか。

 さらには、平等や差別のないことに価値を置く理念やヒューマニズムが、洗礼や聖餐の本質を捻じ曲げていないでしょうか。わたしは大きな危惧を抱いて、日本基督教団の現実に直面しています。今年の223日に西東京教区で教師の研修会が行われました。そこで、ある実践神学を教えている神学教師が、聖餐のパンを「わたしたちの労苦の象徴」と解釈し、ブドウ酒を「わたしたちが流す涙の象徴です」と解釈する「新しい式文」を提示しました(詳細は「日本基督教団西東京教区 2008年度一泊教師研修会報告書14頁参照」。つまり、そこには主イエス・キリストの十字架も復活も、さらには贖罪信仰もない聖餐の理解が、世界の諸教会の時流に従った式文として提示されたのです。聖餐は、ローマ・カトリック教会やプロテスタント諸教会によってその理解に違いがあることは事実です。しかし、歴史的なキリスト教は、聖餐のパンとブドウ酒を洗礼を受けた信仰者が、信仰をもって与ることによって、わたしたちのために十字架にかかってくださり、復活なさった主イエス・キリストの体に与るという恵みと認識する点では、常に一致してきたと言えます。コリントの信徒への手紙(一)1016節の「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」というパウロの言葉は、聖餐の奥義として常に鳴り響いてきたと言えます。しかし、昨今の教団では、聖書と教会の伝統は踏みにじられ、人間の思いの投影が、聖餐の理解そのものを捻じ曲げてしまっています。

 教憲第二条に示されているように、教団は信仰告白を定め、信仰告白による一致を前提とする教会です。それは「旧新約聖書に基づき、基本信条および福音的信仰告白に準拠して1954年第八回教団総会において制定された」教団信仰告白における一致以外の何ものでもありません。教団信仰告白は、旧日本基督教会の信仰の告白(1890年)と同じく、使徒信条に前文が付されたかたち(簡易信条と言われます)を踏襲しています。使徒信条は、わたしたちが受け継ぐ公同の信仰を表すとともに、前文では、正典としての聖書が神の霊感によって書かれたこと、神の言としての聖書が、信仰と生活の誤りなき規範であること、三位一体の神への信仰、贖罪、信仰義認、聖霊の働き、教会などについて言及されています。ここには、福音主義教会の教理の基本となるべき信仰箇条が余すところ無く示されていると言って良いでしょう。教会で、これらの信仰箇条を、一つ一つ丁寧に、基本信条や宗教改革諸信仰告白との関連で学ぶことが大切です。

 さらに、一致した信仰告白は、聖礼典の理解の一致、職制の理解の一致、そして正典の解釈の一致などを生み出します。確かに1941年に30余の諸教派の合同によって生まれた教団を信仰における一致へと導くことは容易ではありません。わたしは、昨年世界教会協議会(WCC)の信仰職制委員会主催の「世界合同教会協議会」に参加する機会を得ましたが、そこでは世界中の合同教会が直面する神学上の諸問題が真剣に討議され、時間をかけて問題の所在を明らかにする努力がなされておりました。印象的だったのは、使徒信条やニカイア信条が告白する公同の信仰に基づいて、各教派の伝統をそれぞれ重んじつつ、一致へと向かうという基本姿勢が貫かれていたことです。

 わたしは、現在の日本基督教団にあって、第一に異なる教えや聖餐理解を退けることが急務であり、そのための闘いを回避しないことが大切であると思います。このような戦いは、信仰の闘いです。エフェソの信徒への手紙61617節は、「信仰を盾として取りなさい」「救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」と勧めます。ここから、第二の課題として、わたしたち自身がどのような信仰理解や救済理解さらに教会理解を持ち、教会の一員に選ばれた信仰者として礼拝の喜びに参与しているかを自己吟味して、信仰の一致を目指して進むことが大切です。

 3 礼拝の喜び

 教会につらなる喜びは、何より礼拝する喜びです。礼拝は、わたしたちが神ご自身に招かれ、父・子・聖霊なる三位一体の神を讃美頌栄する行為です。

 パウロは、Ⅱコリント317節で「主の霊のおられるところに自由があります」と語っています。パウロは、この箇所で、出エジプト記3429節以下のモーセのシナイ山からの下降を念頭に置きながら,ユダヤ教の礼拝とキリスト教の礼拝の差異を明確に語っています。復活の主の現臨は、もはやわたしたちの心に覆いがかかったまま、讃美礼拝されるのではなく、「主の方に向き直れば、覆いを取り去られ」(16節)、復活の主のみを神とする自由が与えられます。このような、礼拝の喜びが、わたしたちが教会に連なる喜びとなります。

 礼拝は、確かにわたしたちが捧げる行為ですが、同時に神ご自身が主体となる出来事でもあります。このことをしっかり認識していないと、礼拝は結局良い説教を聴いて今日は有り難かったとか、満足だという自己中心的な守り方に終始してしまいます。英語で礼拝のことをサーヴィスと言い、ドイツ語では、ゴッテスディーンストと言いますが、いずれも、神がわたしたちに仕えて下さること、奉仕して下さることを意味します。つまり、わたしたちのために礼拝があるのではなくて、神がわたしたちに奉仕して下さるゆえに、わたしたちが神の前にへりくだり、神に徹底して仕える姿勢で礼拝に出席しなければなりません。この姿勢が崩れると、礼拝は礼拝ではなくなってしまいます。ローマの信徒への手紙1213節のパウロの勧めは、わたしたちがその生活のすべて、全存在を神に献げる生き方そのものが、礼拝であると語っています。

 教会は、その出発点から礼拝する民として可視的な共同体を形成してきました。それがどんなに小さな群れであっても(マタイ1820節)、またどれほど貧しい群れであっても、神が選び出し(申命記76節)、礼拝の姿勢と言葉とをわたしたちに与えて下さいます。

 言うまでもなく、神の民としての教会の原型は、旧約聖書のイスラエルにあります。申命記六章四~五節に記されているように、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という御命令に生きる民が、すなわち神の恵みに聞くという仕方で応答する民が、教会なのです。

 三位一体の神を礼拝するとは、主イエス・キリストの十字架と復活、昇天の出来事を通して、主イエス・キリストにおける、父なる神のご臨在を信じる喜びに与ることです。神ご自身の交わりとは、神が御子イエス・キリストを十字架に送り、苦難と死を経験されるというまことに厳粛なものです。ゲッセマネの園での祈り、そして十字架における主イエスの叫びにあらわれているように。父なる神は徹底して、私たち人間のために、御子を死に渡し、血と肉を裂いて、わたしたちを救おうとされました。その父なる神と御子との交わりの中にわたしたちは入れられて、神の深い愛と恵みを知らされます。

 三位一体の神は、ご自身の中にすでに、父・子・聖霊の交わりを持っておられますが、わたしたちはその交わりに参与することが赦されているいのです。罪赦されて、神の生命に生きることができる、古い自分が死に、キリストにある新しい生命に生きることができる、これがキリスト者にとって最も深く大きな喜びなのです。ヨハネ福音書4章が描く、サマリヤの女性と主イエスとの出会いは、主イエスの差し出す永遠の命に至る水を与えられた者が、罪の赦しと救いに対する応答として、「霊と真理とをもって」父を礼拝する場所と時が与えられる主の約束を描いています。

 三位一体の神を礼拝する喜び以外の喜びが、教会生活の中心に来ると、教会は教会ではなくなります。気の合う人々との交わり、教会を通じて知り合った人々との教会以外のところでのリクリエーション、それらが最も大切な意義や喜びを獲得するとき、わたしたちは教会生活の意義を見失います。キリスト教プラスαの信仰は、キリスト教信仰でもなんでもありません。むしろ、それは偶像崇拝に近いものに堕落してしまいます。

 偶像崇拝は、崇拝の対象が自分の前から取り去られると、すぐに不平と不満がわたしたちの心を占めるところからわかります。ある旧約学者は、偶像とは、霊を閉じ込めるものであると指摘していますが、まさに人間的霊がそこに閉じ込められ、それを自身の霊で支配してしまうという奇妙な諸霊の支配関係が、偶像の本質にはあります。

 フィリピの信徒の手紙44節で、獄中にあったパウロが、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と語るのは、かれの全存在の中心に、生ける復活の主イエス・キリストがおられるからです。フィリピの信徒への手紙を締めくくるのは、419節、23節の三位一体的な頌栄定式であるのも、パウロ自身が、父と子と聖霊の神の信仰にしっかりと生かされていたことを示しています。

 パウロが、テサロニケの信徒に対して、「わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています」(Ⅰテサロニケ39節)と言うときも、復活の主の命に生きる者の共通した喜びが語られています。教会に連なる喜びは、復活の主に結ばれている確信から与えられる喜びなのです。

 復活の主と一つに結ばれているという確信は、礼拝のたびごとに、説教と聖餐を通して与えられます。「見えない言葉」である説教は、聖霊の照明を与えられて、語られた聖書の言葉が神の言葉となります。聖書の言葉を通して、天におられるキリストの体と結ばれます。

 聖餐のパンとブドウ酒は、確かに物にすぎませんが、主イエスが制定してくださった固有の物を通して、やはり天の主イエス・キリストの体とわたしたちは一つにされます。わたしたちの罪の体が死に、天のイエス・キリストの命に与る恵みは、何にも代え難い恵みです。

 4 悪と戦い、諸霊を識別する

  キリストの命に結ばれ、キリストの体なる教会の枝とされた者は、信仰の勇気を与えられます。エフェソ書6章10節以下は、「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」と勧めた後、悪魔の策略に対抗するように、神の武具を身に着けなさいと語っています。

 天のキリストにしっかりと結ばれた者は、人生の中心を持ちます。決してそこからぶれることはありません。試練が襲っても、ルターのように、「祈りなさい、黙想しなさい、試練を経験しなさい」と語り続けることができます。

 今の日本社会は、自己中心主義が人々の心を覆っています。悪が社会の隙間を埋めています。このような時代にこそ、「真理を帯びとして腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物」とし、さらにその上で「信仰を盾として取り」「悪い者の放つ矢をことごとく消す」ことができるのです(エフェソ6:16)。

 悪との戦いや諸霊の識別は、新約聖書においても、また古代教会においても重要な教会の課題でした。ヨハネの手紙(一)41節以下には、「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうか確かめなさい」と問いかけています。神から出た霊とは、「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊」(2節)のことです。「イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です」(3節)とはっきりと言われます。また古代の教会では、24世紀にかけて、諸霊の識別という問題は、重要な課題として認識されました。

確かに聖霊と諸霊、またそれらに与った個々人をわたしたちは神のように識別できません。しかし教会に「反キリストの霊」や悪が入り込み、キリストの主権と権威を貶め、否定するような力が働くとき、教会は決して傍観者ではなく、目を覚まして祈り続け、同時に戦いを止めないのです。それが、先に挙げたエフェソの信徒への手紙の姿勢です。

 現代社会は、さまざまな悪霊と悪が支配する時代です。犯罪だけでなく、虚偽、虚栄、自己中心主義、欲望の肯定などが市民権を持って自由に往来し、他方生きることがつらくなった人々が、毎年3万人以上自ら命を絶ちます。福音に生き、キリストの命に与っている者は、勇気を持って率先して、悪との戦いに出向きます。悪は、自分の家庭、身の回り、職場、世界至る所にあります。しかし、これらの悪は、独立した実体というよりも、神を信じ、キリストを信じる者には、あたかも存在しないかのような存在、無といってもよい存在です。主により頼み、信仰という盾を取るものには、恐れるに足りない相手とも言えます。

 日本基督教団という場所でもまた信仰の戦いが必要です。戦いによってはじめて信仰の一致がもたらされます。神は御自分の計画によって、教会の歩むべき道を備えてくださいますが、そのご計画を確信すればするほど、わたしたちは真理のための戦いを回避することはできません。4世紀の教会、16世紀の教会の歴史は、わたしたちにそのことを教えてくれます。

 現代の教団の戦いは、教憲と教規及び教団信仰告白という規範にしっかりと根ざした教会を形成する戦いでもあります。この戦いに、わたしたち信仰者の責任と応答があらわれます。

 5 伝道と教会の形成に参与する喜び

罪赦され、神ご自身の生命に触れ、それに生かされる経験をするとき、わたしたちは、その喜びを他者に伝えたいという促しを与えられます。ちょうど、創世記12章に記されているように、神の御声に促されて、アブラハムがカルデアのウルを出立し、カナンへと入ったように、わたしたちも自己保身や自己中心の生き方を止めて、新しい出発をします。同時に、主イエスキリストと出会って、弟子となった人々のように、主の御跡に従う生活を始めます。しかし、何と言っても、わたしたちに伝道の勇気と力を与えるのは、復活の主の伝道命令を聞くときです。マタイ福音書281620節には、よみがえりの主が、弟子達に顕現し、近寄って来て、「・・わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子としなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と語られたことが記されています。この宣教命令は、一部の弟子だけではなく、わたしたちすべてに告知されたものであると、キリスト教会は考えてきました。

 本年は、日本におけるプロテスタント伝道150年の記念すべき年です。かつて宣教師たちは、海を越えて異教の地に福音の種を蒔きました。日本の諸教会は、なお数も規模も小さな教会と言えますが、これから協力して伝道する姿勢を強め、主にあって一つという確信をさらに深めていきたいと願います。わたしたちが隣町に、さらに教会の無い諸地域に、さらには海を越えて伝道する番ではないでしょうか。

 教会は、決して閉ざされたサークルではなく、常に地域や国、世界の人々に喜びを伝え、共有する用意のある共同体です。ですから、伝道の喜びを喪失し、自己保身的、自己完結的集団になってしまうと、教会は教会であることを止めてしまいます。わたしたちの教会は、牧師固有の職務を前提にしながら、同時に万人祭司という考え方の伝統を継承しています。すべての者が神に招かれ、家族や地域、国全体、世界全体にみ言葉の喜びを伝える使命を与えられていると自覚したいと思います。

 教会は、主イエス・キリストのみを頭とする群れであり(コロサイ118節)、主イエス・キリストご自身が、主の体にもっともふさわしく教会が整えられることを欲し給います(ヨハネ221節)。エフェソの信徒への手紙221節には、「キリストにおいて、この建物全体は組み合わせられて成長し、主における聖なる神殿となります」と記されています。

 地上の教会は、様々な罪と過ちに満ちていますが、この主の願いを真剣に聞きます。それゆえ、教会に連なるすべての者が、祭司として主に仕え、隣人に仕え、神の宮である教会の形成に参与します。教会の形成は、牧師や長老の仕事であって、わたしたちはお客さんという理解は誤っています。

 教会のすべての者が、教会の教えを学び、教会とは何か、福音とは何かを知る必要があります。また、わたしたちの教会がそこで生かされている、教会の歴史的伝統も十分認識していることが大切です。また日本という風土の中で、キリスト教を伝えていく困難と光栄を知っていることも大切です。そして、身近なところで、この「わたし」も、伝道と教会の形成に参与することです。また、礼拝の中の献金に表されている献身という姿勢もまた、教会に連なる者の喜びの表現であることも自覚したいものです。

 

6 公同の教会を信じる喜び

使徒信条やニカイア信条における聖霊の信仰告白の中に、「聖なる、公同の教会を信じる」という箇条があります。わたしたちは、可視的教会に属するとともに、公同の教会を信じます。「公同の」とは、カトリックという言葉です。カトリックという言葉は、ローマ・カトリック教会の専売特許ではありません。わたしたちプロテスタント教会も「公同の教会を信じる」のです。公同の教会は、三位一体の神への信仰を共有し、御父と御子イエス・キリストの同質を信じ告白します。もしイエス・キリストを単なる人として、立派な教師や政治活動家、道徳の手本のように考えて、「信仰」の対象としているのでしたら、それは公同信仰を保っていることにはならず、そのようなことを許容する教会は、もはや公同信仰に生きていない「異なる教えの教会」ということになるでしょう。

 公同の教会への信仰は、わたしたちの可視的教会が唯一の教会であるというような独善からは常に解放されねばなりませんが、同時に異なる教えに対しては毅然として戦い続けます。公同教会に連なるとは、各個教会を超えた普遍的教会の生命の中で、わたしたちの教会の信仰も育まれ、成長させられることを意味します。

 エフェソの信徒への手紙4章5節以下には、「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます」と記されています。教会の公同性と一性は、主なる神御自身の唯一性に根拠を持ち、そのような教会への信仰が、聖霊への信仰と結び付けられています。それゆえ、頭なる主を中心にして、賜物に応じて、使徒、預言者、教師,援助する者、管理する者など、多様な職務が形成されます(Ⅰコリント1228節)。聖霊は、自由にわたしたち一人一人の人格に働きますが、同時に教会という共同体の秩序を形づくるのです。

 したがって、公同の教会を信じるという信仰箇条の重要さを自覚したとき、わたしたちは教会のすべての事柄を「教会的に」考える姿勢を与えられます。

    参考文献

関川泰寛『聖霊と教会』(教文館)