2011年3月11日の東日本大震災をきっかけに、絆、縁、ゆかりと言った事が、ひどく重視されるようになったが、果してそれだけでよいのだろうか。以下は以前実施した日本文化系総合科目の授業用メモに多分に依存する事になるが、そもそも「縁」とは「縁起」という仏教の根本教理にスタートしているのであり、縁起絶対視の根元には唯名論(*)⇒唯識論=無我・無自性(**) ひいては霊魂非在⇒絶対空、絶対無の観念が横たわる。そして、それは日本人の大好きな、厖大な大般若経のエッセンスと言うべき、般若心経に集約されている。ちなみに菩薩行(ボサツギョウ)実践尊重の創価学会では拒否反応を呈しているし、ヒンズー系多神教の応用ともいうべき、真言密教を中国留学で学び取って来た、弘法大師空海の開いた真言宗の旧い家庭用日々勤行(ゴンギョウ)次第ではリストアップされていなかった。
 だから弘法大師の旧跡札所めぐりで般若心経を唱えるのは、よく考えてみればおかしな話であるし、葬儀や法事に唱える事が多いのは、告別の辞としては好適であっても、時と場合によっては違和感があろう。
 縁起説では全て偶然、本質的にはかげろうのように不確かで移ろい易い、「縁」あって生じたかに<錯覚>されるのであり、「縁」がなければ、あるいはなくなれば総ては雲散霧消するという事であり、その事に覚醒して<覚者>=仏となることが信仰⇒修業の最終目的という事であるが、それで究極的な精神的安定⇒救いが得られるかどうかは、大問題である。
 紀元前6世紀頃に北インドに実在したらしい釈迦が、心身統御の理想への方法論として創唱した仏教は、夥しい<覚者>達の修行と思索のリレーの挙句、約5世紀間を経て、遂に「空観」に到達し、根幹教理の一つの完成を見た。それが三蔵法師玄奘(ゲンジョウ)によって7世紀中国に伝えられ、法相宗の開宗を見たあと、徐々に日本にも伝えられ、8世紀奈良時代の南都仏教の根幹として定着したのだが、その段階では教理的には多分に貴族仏教であって、民衆は日本の神々と並ぶ外来の神として、教理抜きに唯々ありがたがるしかなかっただろう。
 だが次の平安時代8世紀初頭、南都仏教にあき足らなくなった伝教大師最澄が、中国に留学して、若い時からの自らの修行地比叡山に、中国仏教の根本道場の一つ、天台山を投影して、天台宗を開創するが、その際仏経出典の衆生(シュジョウ)悉有(シツウ)(***)仏性(ブッショウ)、つまり誰でも修行に励めば、仏の位に達する可能性があるという理念を、「山川草木悉有仏性」とねじ曲げ、長年の隔絶した籠山修行から痛切に感得した実感であったにせよ、そもそも入道修行する事すら、山川草木はできないのに、仏の位に達するはずはないという南都仏教正統派からの猛烈な排撃を排除して、日本古来の自然汎神論による多神信仰に継ぎ木する形で、教理的にも仏教土着化⇒民俗信仰化のきっかけを造り、以後浄土教系、天台密教系⇒修験道、日蓮宗系⇒創価学会や立正佼成会等の新宗教、禅宗系へと続く、日本的仏教の流れをスタートさせ、神仏習合の教理的裏付けへの道も開き、仏教の日本列島浸透の原動力を造り出したのである。そして真言・天台密教の多神性は容易に日本の多神と結合する。これは日本列島全霊場化の現象で、今では西洋人からも注目されている所であるが、これも言わば、大きく見れば「縁起」の現象の一つで、もし全自然美が剥ぎ取られて、岩と砂だけの荒涼たる世界になったと想定した場合は予断を許さない。
 広大な不毛の地の中に聳える荒々しい黒い巨大な岩山(筆者もかつて空路から暫く眺め続けた)で、エジプトからの苦難の旅を長年導いて来た、イスラエルの民を山下に残し、孤絶した状況で神からの啓示を受けたモーセは、その後も民衆を導く旅を続けるが、神の指示でヨシュアを後継者とした後、イスラエルの民と同行して、カナンの父祖の故郷の地に入る事を許されず、やはり孤絶してピスガの峰から遥かにイスラエルの民の行く先を望見した後、モアブの地に留まり、長年辛苦の旅を共にして来た、イスラエルの民によって葬られることはなかった。このようなことは端的に、人との絆の重大性は言うまでもない事ながら、神との結付きこそ絶対究極のものである事を示すであろう。
 かつて筆者の現役時代、ある研究大会の席上、大谷大の多屋頼俊教授は、浄土教の起源が東伝キリスト教に在る推論を示して、キリスト教と浄土真宗の同源論を提唱して、列席者を驚かせたが、その後教授は定年後、学界も去って、親鸞ゆかりの吉崎道場主として、門徒の指導を終生の勤めとした。
 また同志社の日本文化学科の廣川勝美教授はかつて長年の同労の友であり、筆者の暫くの期間の同志社出講にもかかわったが、その後絶縁、彼の方はライフワークの総仕上げとして、宗教学者山折哲雄等をかつぎ、諸大寺管長、諸名社有力神職を束ねて、例の西国四国番立て札所巡拝の向うを張って、新たに神仏霊場会を立ち上げて、事務局長として活動中である。また同志社の方では、モーセの宗教を総合的に研究する、一神教研究センターが立ち上がったようである。そしてそうした動向と全くかかわらなくなった筆者の遍歴の旅は13年前突然終了して現在に至り、感懐無量である。
 ちなみに近代の実証的宗教史や、比較宗教学の文献学的研究から釈迦死後、西暦3~4世紀頃、中央アジアあたりの宗教ブレンド状況の中で肉付けされたと覚しい釈迦伝に、類似エピソードの存在から、新約聖書のキリスト伝の影響は明らかだし、その果て、今や一部からは実在への疑問すら投げかけられ始めた、日本の聖徳太子伝にも、キリスト伝の影響らしい部分がある事が指摘されている。

注 釈
(*)...「唯名論」とは、唯心論や唯物論を否認して、全現象・全現実は事物の名も動作語・形容語、助辞なども全てがひたすら名称のみによって区分認識可能になると言う考え方、ちなみに言語中枢がこわれて<失語症>になると、全現実がのっぺら坊になって、堪え難い精神障害になるらしい。
(**)..自性」とは、それぞれの事物の固有の本質とか実質、自我の場合も同じ。だから「無我」の「我」にも当てはまる。
(***).悉有」とは、ことごとく全てが保有するという事。
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